『人は人として正しくなければいけない』
「人は何のために生きているのか?」 と考えたことはありますか?
震災後よく 「震災に遭い、亡くなった方々の分まで生きなければならない。残った私達は生かされているんだ」というお話を聞きます。
途方もない苦難にお遭いになった人達しか語れない、重い言葉です。
では私達は?
「生きていた足跡を残すため」
「子供達の成長を見守るため」
「夫婦の絆を保つため、守るため」
そして「人生を楽しむため」
いろいろな生きる目的と価値が、必ず人にはあります。
生きる価値が無い人はひとりもいません。
しかし、「生きる」そこには必ず "ルール" があります。
それを私は、 『人として正しくなければいけない』 と考えています。
人生の中で "もっとも自然なルール" が
『人として正しくなければいけない』
なのではないでしょうか。
あまりに当たり前の事です。
しかし、大きな言葉です。
私は、仕事上多くの方々と次々にお会いします。
とっても新鮮な出会いばかりです。
社内の人も、
協力会社の社長さんや、番頭さん、職人さん
小中高校時代の友人達
皆いい人ばかりと思っています。 が
がっかりすることも遭遇します。
通勤で長い信号待ちをしながら、やっと最後の信号待ちになったところへ、いきなり走行車線から割り込んできた車、よく見ると親しくしている社員です。
百年の恋も冷めてしまう、悲しさでした。
通勤で日常的に割り込んでいます。1人徳をしてほくそ笑んでいるのでしょうか?
正しく並んでいる人達に迷惑掛けて、個人の徳を取っている事を考えたとき、悲しくないのでしょうか?
その日から態度には出しませんが、心と心の間には距離を置くことになってしまいました。
家内の話です。
大通りにでる道で、なかなか左折できません。前にまだ何台かいます。
そこへ一台の車が後ろに来ました。社の部下でした。家内に気がついていません。なかなか進まないとみると、左側のコンビニの駐車場を横切って通りに出て行ったそうです。
本人は「要領よく得した」とだけ思っているのでしょうが、家内は会社でその部下を「そういう程度の人物、心のお付き合いはできない人」と判断したそうです。
(こういう話は夫婦で良くします)
小さな事例ですが、私が言う「人として正しく生きる」ということはこういう事です。
私個人が追求するのは 『他人からいい人と呼ばれる人になろう』 と言うことです。
『人として正しく生きる』 ことが 『いい人と呼ばれる』 と同等だと思っているからです。
その「いい人」として人生で目標とする人物が私には居ます。
人として人物として どこまでも正しく生きている人物です。
いつか、私も "人として、人生の目標の人物"になれるように、毎日努力しなければと思っています。
それにはまず "繊細" でなけれいけないように思われます。
それにはまず "やさしい人" でなければいけないように思われます
それにはまず "人の気持ちを感じる人になる" でなければいけないように思われます。
それは簡単ではありません。
日々 "そうすべきである" ことに気が付いているがそのまた前提なります。
人は誰もが 「心の中にずるい気持ち」 を持つ動物です。
日々、 「自分の中のずるい気持ちとの戦い」 です。
おぼんの上の水のように、傾ければスーと楽な方へ流れていきます。
私は、大した人間ではありません。時には水のようにスーと流れてしまうこともあります。
しかし、多くの方々と違うと自分で思っているのは、その事に気がついていて、自分を日々反省する習慣を持っていることです。
『人として正しく生きる』 とは、当たり前の事でありながら、突き詰めると本当に難しい事なのです。
皆さん、ごちそうになった時、ちゃんと「ありがとうございました」と 大きな声で言っていますか?
仮に先輩であっても 「今回は私が出します」くらいの謙虚な言葉言ったことありますか?
朝社内を掃除しているとき、先輩より先に席着いたりしていませんか?
何か頂いた時に、間を置いてちゃんとお礼をしていますか?ごちそうになりっぱなしではないですか?
毎日の生活でも、気がつかず、出来ていない 常識 それを守ること、それが「人として正しいこと」の始まりです。
それができる人を、人は 「人物」 と認めるのですね。
難しいですね。
出来ていない人だらけです。
私は日々勉強です。
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